部落解放・人権政策確立要求京都市実行委員会

第39回大会開催

独自事業は 宮前千雅子さん「水平社の姉妹たち」

 

 

 122日(火)、京都府部落解放センターにて部落解放・人権政策確立要求京都市実行委員会第39回大会が開催され、65人が参加しました。司会の部落解放京都地方京都会議の森本尚秀さんが、開会のあいさつをおこない、議長団に京都市小学校同和教育研究会の稲垣知裕さん、京都市中学校教育研究会人権教育部会の川島浩明さんが選出されました。

 はじめに、市実行委員会より吹田良忠会長が挨拶し「私ども宗教者が糾弾を受けたのがこの場所です。もう40年近く前の話であり私もその時一部員として出席していたところ、その私が会長をしているというのが信じられない思いもある。しかしそうした糾弾があったことで、いろんな方と知り合い、話し合いもしてきた。本日は、多くの議案について協議していただきたく、お願いいたします」と述べました。

 来賓あいさつとしては、京都府実行委員会から吉田寿事務局長が「部落差別解消推進法が制定され、早いものでまもなく9年となる。この間、この理念法を具体化していくため、私共は府内各自治体で人権条例を制定するべく求めてきた。南丹、綾部、亀岡で制定され、京都府でもこの41日から施行されている。しかし差別禁止や具体的な対応に課題があり、また情プラ法についても差別事象について速やかな削除に向けては課題がある。皆様と連帯・協働して取り組んでいきたい」と訴えました。

 次に京都市を代表して、並川哲男文化市民局長が「人権侵害が複雑化、多様化している現状において、ヘイトスピーチやハラスメントなど大きな問題があり、これからも取り組んでいく」とする松井孝治市長のメッセージを代読しました。最後に京都市会より公明党青野ひとし市会議員より「国では与党から野党と立場が変わったが、人権が尊重される社会に向けた取り組みについては変わることなく頑張っていく」との挨拶をいただきました。

 

西名貴史さんがメッセージの読み上げをおこなったあと、来賓の方々が退席され、議事の進行に移りました。

古谷宏事務局長が38期の活動報告を行い、京都商工会議所の山浦健二さんが会計報告。京都人権啓発企業連絡会の池上宏平さんが会計監査報告をおこない、参加者の拍手で確認しました。続いて、事務局長より基調提案、また会計より第39期予算案の提案があり承認されました。役員人事の選出を、竹村忠浩市協事務局次長が提案しました。吹田良忠(ふきた りょうちゅう)さんが再選出されました。

最後に、大会決議案が、同和問題に取り組む京都府宗教者連絡会議議長、高岡聖道さんの代理で白河祐亮さんが読み上げ、全員の拍手で確認されました。

最後に閉会挨拶を、実行委員会副会長に選出された木下松二市協議長が行い、「いまだにウクライナやガザへの攻撃は止みません。一日も早くまずは攻撃をやめることを訴えていかなければならない。私が部落解放運動で学んだのは、差別の延長線上に戦争があるんだということ。反対に、戦争に至らないために、人権をどう守り、発展させていくのかということが大事である。本日のこの後の講演は水平社の姉妹たちというテーマでお話いただく。被差別部落の女性たちの状況について私も理解したいと思うのでぜひ、参加をお願いしたい」と述べました。

全ての議事を終えた感謝とともに議長2名が降壇し、第38回大会を終了しました。

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  引き続き京都市実行委員会の独自事業「考えてみませんかーあなたの人権、わたしの人権」が開催され、今年は「水平社の姉妹たち〜部落フェミニズムの歴史をたどる」と題し関西大学人権問題研究室移植職員の宮前千雅子さんに講演をいただきました。以下に要旨をまとめます。

 

宮前千雅子

「水平社の姉妹たち〜部落フェミニズムの歴史をたどる」

 

 90年代から水平社の女性たちの資料を集めてきました。ここで自己紹介をすると、リバティおおさかに90年代に学芸員として勤務していました。ただリバティが閉じて、現在は様々な大学で非常勤講師をやっています。近代の歴史のなかでマイノリティがどういう歴史を紡いできたのかというのが関心領域です。

今日は、編者の熊本理沙さんが「部落フェミニズム」を販売しに来ているので、みなさまお帰りにはぜひ、一冊買ってください。部落フェミニズムとは何か。私たちが自分たちで名づけ、広げていきたいと考えています。

水平社宣言は大好きですが、ひっかかるところがある。1923年から28年くらいまで婦人水平社を立ち上げた女性たちの活動があったので、今日はそれを紹介したいと思います。婦人水平社の活動から部落フェミニズムはスタートしていますので、その歴史をたどることの意義を伝えたい。

資料には、母方の祖父母の写真を載せている。私は大阪で生まれ育ったが、両親は兵庫県の被差別部落の出身。それぞれが兵庫の部落で知り合って、大阪の部落ではない地域で私を育てました。私は自分が被差別部落出身だということを長い間知らなかった。ただ、両親のいろんな会話から、「隠せ」ということがたくさんあったり、言ってはダメということがたくさんあったり、いろんな思いを持っていた。大人は「隠し事をするな」と言うのに、そこだけ矛盾しているので、子どもとしてはすごくひっかかっていた。そこに答えが見つかったのは、大学に行ったときに母に言われた言葉で、そのまま言うと「うちは血筋が違う」と言うんです。違う血筋などないんですけど、母はそう言うんです。父方も母方もいわゆる部落産業で生計を立てていたということはある。それを言ってはいけないと。また、祖母はほとんど文字を読めない。カタカナが少しだけ。また、アブラカス、私の祖父母の家にも屋外にこういう大きな鍋があって、すごくいい匂いがするので、近くの子どもたちが寄ってくる。また、大阪の小学校の同和教育用に作っているサイボシ用の釜。また、祖父母のサイボシ。馬肉と牛肉があります。祖母は、牛肉のサイボシに甘辛く味付けをしていたので、美味しかったことを覚えている。乾かすのに網戸を使っていたり。部落に特有の食肉産業、豊かな文化を持ってきていたはずです。でも、隠せと言われてきた。なぜ、母が隠せと言うかというと、母自身が教育にアクセスできていない。男兄弟はいたが、長女である母は、祖母の手伝いで学校に行けていない。差別する側が、血筋がちがう、あそこはこわいということを言って、それを内面化してしまって、それで、娘である私にそのようにしか言えなかった。私と母にある断絶みたいなものは、もしかしたら、世代間でずっと続いてきたような、部落差別に起因する、女性差別に起因する、歴史的に継承されてきたものではないのか。そう考えたら、私の母についても、その時代を生きた部落女性の一人としての経験という視点をもって見つめることになりました。

部落女性たちは、ずっと働いてきています。例えば部落女性の労働力曲線というのがあって、日本の女性たちは、戦後「専業主婦」傾向になったと言われている。どういうことかというと、いったん働くものの、結婚や出産などで仕事をやめるので、労働曲線にMの切り込みが入るというのが、日本の女性の典型的な戦後の働き方と言われてきたんですが、私の身の回りに一時的にせよ専業主婦をしていた部落女性はほとんどいません。それがよくわかるのが、少し古いデータですが、落解放同盟大阪府連女性部がおこなった調査をグラフにした労働曲線。部落女性は極端なくぼみがなく、男性の働き方に近い。ずっと働いてきたという部落女性の経験の独自性がわかります。その歴史は日本の歴史の中で刻まれてしかるべきだと考えますが、例えば、私が大学で学ぶようになってきた女性史の中には、ほとんど部落女性を取り扱った論文や項目はない。例えば1980年代や1990年代に編まれた論文集の中には1本ずつだけ、部落女性に触れた論文もありました。しかし、現在、女性史からジェンダー史へと視野が広がって、例えば複合差別や交差性と言われるような新たな概念で歴史を見直そうというような、改めて新しい歴史の見直しでは部落女性の部の字も出てこない。分析視点が多様になっているので朝鮮女性や、沖縄女性や、アイヌ女性たちのことは出てきます。でも、部落女性のことはなかったことにされ、一切触れられていないと、そこに私はすごく疑問を感じます。

 また、それと同じようなことが、部落史の中でも言えます。本日の資料に益井茂平さんの写真、千本地区の部落改善に尽力した人ですが、たとえば改善運動に立ち上がった人でも、水平運動に立ち上がった人でも、もちろん女性がいないわけではないが、女性の活動の軌跡は出てこない。そのことも疑問に思っていました。そうした中でみなさんと一緒に考えたいのは、水平社宣言のことです。

私は、母に部落のことを言われたとき、すぐに水平社宣言のことを思い出し読んで、格調高い文章に涙が出てきた。この宣言に励まされたというのが正直なところです。そういう宣言ですが、皆さんと一緒に読み解いていきたい。

水平社宣言は、いろんなところに大切な要素がちりばめられていて、だからこそ、日本ではじめての人権宣言と言われるのだと思います。人間と言う言葉が10か所以上出てきたり、部落出身であるというルーツをちゃんと大事にする言葉が出てきたり、エタという言葉、あえてカタカナで表記したのでしょうか、また、差別の辛さがわかっているからこそ、差別のない社会を目指そうであるとか、また、西光万吉も後に語っているように、尊敬するということが、この宣言の中心になっている。同情には見下しがあるんだということを、水平社宣言を書いた時点で言っています。尊敬しあうということが大事だと思うし、自分で名乗るということがどれほどすばらしいことなのかということは、この水平社宣言が示して余りあることだと思う。他者から名指しされるのではなく自ら名乗るということの重要性。これほどすばらしい宣言だが、気づくのは、「兄弟よ」という呼びかけ、また「男らしき産業的殉教者」という言葉に象徴される部分です。これについていち早く指摘したのが、部落史の研究者ではなく女性問題の研究者の伊藤雅子さんという方です。水平社宣言は非常にすばらしいが、兄弟よという呼びかけの中に、女は入っていないのか。当時の水平社の人たちは、女は別だと思っていたのか。こんなにまで、人間の尊厳に心をたぎらせた人たちですら女性を、自分の意識の外においてしまっている。これも時代の制約かと思わされると、87年くらいの時点で書いている。それと同じようなことを、昨年、部落解放同盟も見解として出したと思う。兄弟よという呼びかけが、男性中心的な表現で、歴史的制約による問題点であると、見解を明らかにしています。私も長い間そう思っていたが、本当に時代の制約、歴史的な制約であったのか。実は時代だけを理由とはできない資料が残っている。というのは、平野小剣という人がいます。彼は西光万吉と、水平社宣言の最後でかなり添削したと言われている。平野小剣が書いた文章の中には、「兄弟姉妹」という文言が出てくる。例えば水平社の大会の1年前、この人は関東で活動していたので、東京で行われた部落改善運動の大会、融和運動側がやっている大会に出て、ビラを撒いている。それが、すごく水平社宣言と似ている。「自由と平等の渇仰者であり実行者であった」という表現が出てくる。その中に「全国に散在する我が兄弟姉妹よ」というふうに出てきます。また、ほとんど同じ年の1カ月前に出された文章には、「俺たち同族の兄弟姉妹よ!」「同族の兄弟姉妹よ!!」と複数個所出てくるし、平野小剣が関わっている水平社の資料を見ても兄弟姉妹と書かれている。ということは、致し方なく「兄弟」としてしか名乗れなかったとは言えないのではないかと、強く思った。もちろん、それ以上の資料は残っていないので、平野小剣が「兄弟姉妹よ」と入れるべきだと主張したかというと、私もそこまでは言えませんが、状況証拠を積み重ねていくと、「兄弟姉妹」を名乗る可能性は開かれていたのではないか、というふうに私は考えます。

でも「兄弟よ」と呼びかけたのだとすれば、大きな問題があるのではないかと思うわけです。それは、ある言語学者の言葉によると、人間には、男性と女性がいる。同じく部落にも部落男性と部落女性がいる。それは人数的にも同等だと思うが、それが、部落男性、いわゆる人間を男性にしてしまった段階で、男性が人間、普遍形になってしまう。それと同じようなことが部落問題にも言うことができて、やはり兄弟よというところから、「男らしき」と宣言に書いてしまうことで部落民の基本形を部落男性としてしまう。部落差別の体験は、部落男性の体験であると社会に表明したことになるのではないか。当時は女性の権限が今よりも、ほぼほぼない時代に、こんな風にしてしまうことで、部落女性の権利を、随分と縮小させてしまうという効果を生んでしまったのではないかと思います。

それに対抗するように、実は、部落女性たちは、「姉妹よ」と呼びかけた。当時の雑誌に掲載されている言葉で、「姉妹よ」と呼びかけたり、「姉さん、妹さん」とよびかけたり、「姉妹」と書いて「きょうだい」と読ませたり、「兄弟姉妹」と書いて、あえて「きょうだい」と読ませたり、そのまま「兄弟姉妹」を「きょうだいしまい」のルビをうったり、いろんな文章を、水平に投稿していくんですね。私はこれを、彼女たちの抵抗なのではないかと、誰も抵抗とは書かないが、彼女たちも「自分たちも部落の一員である」と自分の文章の中で一生懸命伝えているように読めて仕方なかった。なので、先ほどから言っているように、部落女性は声を上げてきたんです。それを見ようとしなかった人たちがいて、部落女性を見えないものとされてきたということでもある。

そこで、水平社創立大会の話です。そんな風に見えない存在にされながらも、演説した岡部よし子という方がいます。この人はすごく印象的な演説をしたので、後の部落女性も真似をするような型になっていく。どのようなものかというと、学校の先生をしてたんですが、部落であるという「身分をかくして、教壇にたっていた私の生活は、島崎藤村の「破戒」に出る丑松以上の苦しみでした。差別と侮辱、迫害に耐えるだけでは、いつまで経っても自由は得られません。自由と解放は自らの力によってこそ獲られるもので、この力こそ全部落民の団結です。部落婦人よめざめよ。二重、三重の差別と圧迫をとり除くために、ジャンヌダークのような娘出でよ、スパルタ武士を育てたような母になろう。」というように、非常に強い口調で訴えた。この、「二重三重の差別と圧迫」という言葉が、この後、部落女性たちの闘いの言葉になっていくし、後ほど別の大会で、別の部落女性が呼びかけていくことにつながっていく。この岡部よし子は水平社創立から3回大会くらいまで、この水平社の大会にかかわっていて、水平社の運動だけではなく、労働運動にも深くかかわっていて、山内みなというのは労働運動にもかかわった人ですが、その人たちと共に運動をしている。演説会で演説をはじめたら、「弁士中止!」と中断させられることもあって、そういわれると、岡部は「どこが悪いのか」と開き直ったり、そこで留置所に入れられたときに、いわゆる性売買にたずさわる女性たちに「あなたがたのような生活をしなければならない社会が悪い、その社会を改造するために会を作ったのよ。困ったことができたら相談してね」というふうに言うくらい、部落女性の課題だけでなく広く、いろんな女性たちの課題に対して視野を広げていた女性です。ただ、彼女も第3回大会以降は、全然水平運動とのかかわりが見えなくなってしまう。岡部よし子が部落女性の経験する困難を二重三重の差別圧迫と表現したのですが、それが実際どんなものであったのか。部落女性の語りやデータから、少し見ていきたい。

 奈良県の1915年に出された「奈良県統計書」にある小学校の就学率と出席率です。興味深いのは、部落であればどこでも就学率、出席率が低いわけではないということ。高いところもある。ただ低いところを見ていくと、やはり女性の方が随分低い。そういう傾向があきらかになっている。京都ではこれほど詳しい数値はでなかったが、灘本さんや秋定さんの研究からみていきました。棒グラフは1900年頃の楽只小学校と京都市全体の就学率。これで見るとやはり楽只小学校の就学率は低いし、中でも女の子の就学率は低く、半分に満たない。右の円グラフは16歳以上男女の被差別部落の教育程度、これを男女に分けて示していますが、そもそも就学の経歴がない人も多く、また小学校に留まるのも女性が多いということがわかる。部落全体の就学率が低いというのは、労働力にされているということが一点あげられる。これは男女両方ともいえることだが、なぜ女の子が特に低いのかということは、女子の教育を後回しにして、労働力として使用するというジェンダー規範があったのではないか。というのも、奈良の同じ時期の別の資料をみると、藁草履の製造は女子の専業と書かれている。そもそも寺子屋に通っていたのも男子に限られ、女子の教育は後回しだったということが、ある程度わかってくる。同じ時期に大阪の下駄表をつくる様子を、水平社にかかわった卒田正直が自分の幼少期のことを書いている。「母は朝早くから夜おそくまで、下駄表づくりをしていた。いや母だけではない。上の姉のはつも、次のせつも、そうであった。」とあり、女子は労働力として学校に通わずにいた。まさしく、私の祖母も文字の読み書きがほとんどできなかった。母の教育も中途半端だったことにオーバーラップするデータがでてきた。

 データだけではなく、学校に行った後、どんなことがあったのかということについて、たくさんの女性が声をあげている。それは、学校に行っても差別されるということ。高橋くら子、高橋すみえ、両方とも関東で、婦人水平社に参画した女性。友達に「遊んで」と言っても、「チョーリと遊べばけがれるからいやだ」と言われる。また、教師の差別もあった。「エタの子は手を上げなさい」「エタの子には本を読むことを許しません」で、学校に行けなくなる。学校ははじめての社会生活の場でもあった。そこが差別の温床になっている。助けてくれるはずの教員が一緒になって差別をするという例もめずらしくありません。差別されることで、名指しをされることで低い自己評価につながる。部落であるがゆえの貧困と、家庭での女子に対する教育への無理解、そして学校に行ったら名指され、差別されることで学校から撤退することによって、部落女性が教育にアクセスする機会を奪っていった。

 次に働く場での差別について。部落女性だから賃金が低いというよりも、部落女性が働いた場が、労働環境が悪いところであった。当時の賃金、例えば紡績工場の賃金は低く、長時間労働であった。しかしまた、そこからも排除され、差別される。また一方で、部落女性が同じ工場で働く朝鮮人女性を差別する例もあった。そういうこともまた、歴史の中に刻んでいきたい。

 次に部落女性の恋愛や結婚について。もちろん、恋愛や結婚もしなければならないということではないが、部落女性の生活ということで見ていきたい。部落女性の結婚はほとんどが部落民同士となっている。非部落民との結婚は3.5%しかない。恋愛や結婚は反対され、結婚をしても離婚される。投書には「先祖の清い血をけがすことはできない」「家の相続人」「戸籍」など、縦関係の系譜意識、父系血統主義に支えられた親族共同体から、部落女性を排除する力がはたらく。血の系譜というのは、実は家の論理としてある。

部落女性の生活。結婚した先の家族の中で、孤立し、虐げられる姿。夫からの侮辱。経済の実験が夫にあり付属物のように扱われる。ケイという女性は、男に反省を求めたいと。自分の具体的な体験は述べず。男性が支配的な立場に位置する非対称の関係性を述べても、抽象的な記述になってしまうのは、なぜなのかと強く思った。

一方で具体的な語りとしての糸若柳子という人がいます。パートナーとしての責任をはたさない夫。自分の生活と運動との両立を果たそうとする姿は、部落女性に特有のものではないか。部落男性は、運動なのか生活なのか。運動なのか子育てなのか特に問われることなく、運動にまい進していた。しかし、糸若さんのように、子供がかわいければ水平社やめよと迫られ、抱いている子どもの顔に雨のような涙を流す人もいた。

もう一人は、阪本清一郎の妻で、阪本数枝という人。この人がケイではないかと言われている。何度も水平新聞に投稿している。そこには具体的な事象はないが、日記が残っている。阪本清一郎はやはり浮気をしている。腹を立てると爆発させてののしる。DVですね。それを耐え忍んで妻であることを選んでいく。夫は水平社運動の指導者なので、それを水平新聞に書くということは難しかったと思う。部落共同体内では批判を差し控えざるを得なかった。私的領域内の抑圧を見出してはいたが、阪本清一郎をつぶすことはできないと判断していたのではないか。本来は一番安全であるべき家族や部落共同体が、数枝さんには全く安全な場所ではなかった。女性差別と部落差別がからまりあっている。それが、複合差別の交差性と言われる言葉の一つの在り様です。様々な現場で声を失い、とまどってしまう。

 そんな中でも婦人水平社の立ち上げ、活動をおこなっていきます。そこで声を上げたのも阪本数枝で、第3回大会で「婦人水平社の発展を期するの件」というのを上げて、認められる。「男ばかり水平運動をやっても駄目である。夫人は目覚め、一日も早く水平運動に関係せねばならない」とのべ、第4回、第5回、第7回と提起するが、具体的な内容に入れない。そこで、全国的な運動は終わってしまう。しかし、このケイという女性は大切な提起をしている。水平新聞の「婦人欄」での応答。非部落民である山川菊栄との応答。「禍は、特殊民に生れたということにあるのではなく、特殊民たることを恥ずる、この理由のない卑下、卑屈にあるのです。自分で自分を奴隷視し、賤民扱いする所にあるのです。」それに対してケイは「私ども部落の婦人は、三重の苦しみを受けていることを忘れてはなりませぬ。一、部落民であるがゆえに 二、生活の自由がない故に 三、女性であるが故に、…部落婦人の立場を考えずに私共姉妹に自覚を促されるのを度々見受けますが、誠に不愉快でなりませぬ。」と反論。誰も、卑下したいわけではない。卑下せざるを得ない立場に追い込まれる。

具体的な運動は、地方で展開される。埼玉、福岡、また労働争議も展開され、要求を認めさせる。そうした中で、視野が広がり、様々人たちと出会っていく。今でもあるが国際女性デーの39日を選んで取り組んだことも紹介したい。また、京都でも女性たちの発言があった。

しかし、婦人水平社の活動は突如終焉を迎える。それは共産党の動きにかかわっている。関東婦人同盟が解体させられるときの資料がある。そこに女性解放は階級闘争で成し遂げられるのであり、別団体は男性への「反抗運動」だという理屈がある。関東婦人同盟の射程は広くて、例えば植民地婦人の一切の解放であるとか、朝鮮半島の女性や部落女性との連帯も目指していた団体。この団体がなくなったのとまったく同じ理屈で、水平社の第7回大会で、婦人水平社をやめて婦人部を設定するという提案がなされる。それを提案したのは西田はるという、部落女性ではあるけれど理屈は共産党とまったく一緒。婦人水平社と言う別団体であること。運動を「サボっていたこと」「女性解放は階級闘争で成し遂げられる」「別団体は男性への反抗運動」と言う理屈で「水平社婦人部設置の件」が提案されて以降、水平社の中での女性の動きと言うのはほとんど見えなくなってきます。

 関東婦人同盟の勉強会の拠点が、京都の田中の夜学校であったりする。部落を拠点として左派の労働運動の女性たちが連帯しようとする動きがあったということ。そういう中で、もうおしまいという提案がなされた。

なぜ、婦人水平社がこんな短期間の運動に終始してしまったのか。これまで研究者が言ってきた4つの理由がある。

1.     もっとも困難を抱える女性たちの課題は深められなかった。文字に親和性のある経済的富裕層が中心だった。また、絡まり合った差別の中で、具体的な言葉が紡がれなかった。部落女性の独自の課題を明確化できなかった。

2.     思想弾圧で指導者を奪われた。共産党の運動とダブっている部分があり。

3.     ある男性の研究者が書いた論文にあった三つ目に驚いた。婦人水平社の活動をしていた女性は、男性活動家と結婚した人もいた。それをもって、彼女らが、理解ある男性との結婚が、自らの運動の帰結だったから運動の場から退いたんだと。私は何を言っているのだと思い、結婚は自分たちの運動の帰結ではなく、新たな葛藤のはじまりであり、決して部落男性は迫られない課題であった。迫られないからわからないのではないか。

4.     最後4つ目は、水平社が部落女性の課題を深められなかった。というはまさしくそう。水平社の新聞を見ると広告がある。その中に遊郭の広告が散見される。こうした広告があるということは、これを読んでいるのは異性愛男性であるということを決め込んでいるということ。

 

 二重三重の差別、二重三重の鉄鎖というのは、部落女性が体験した抑圧や差別を端的に表現している。それが、後に続く部落女性たちの道具となって、その言葉をもって運動に参画する人たちがでてくる。水平社の本当の初期には「水平社のお力におすがりする他ない」とか「私たちの進む道を開いてください」とか、非常に依存的であった女性たちが、「姉妹よ団結せよ」というふうに、自分たちの言葉にかわる。その歴史は決して長くは続かなかったが、時には部落男性たちに反省を求めたり、非部落女性に対しても、私たちを差別してないかと反省を迫るように機能したので、部落女性が生きていることを言い表し、それをもって社会に対し、抵抗の言説、闘いの道具ということが言える。その言葉は戦後も受け継がれてきているし、インターセクショナリティなど現在も社会学で語られるが、必ずしも欧米からはいってきた思想ではなく、マイノリティ女性たちが、自分たちの困難のなかから生み出してきた闘いのなかにあった。日本では100年前から受け継がれてきた婦人水平社に代表されるこの言葉が闘いの道具として機能してきたことを思えば、欧米の概念を使わずとも、不可視化されてきた父系血統主義に基盤をおくような家制度の改革を迫っていく、闘いの道具でもあったのではないかと思う。

私がもう一つ見ていきたいのは、部落女性の中にも課題はあったということ。朝鮮女性を差別したということもそうだし、この後、部落女性は戦争協力に舵を切っていく。特に融和運動に見られる、部落女性の戦争協力というのは、日本国民であるとか、天皇の赤子であるとかの思想にそまってしまった。

部落女性を一つに集約するのではなく、いろいろなありようが呼応しあう、部落女性の展望をひろげることにつながる。部落女性の歴史をあきらかにすることで、その一助になりたいと思っています。