第55回人権交流京都市研究集会

 

-在日2世・朴実さんが半生を語る−

〈ワダサム〉鳴り響く! 共生の願いこめて

 


 第55回人権交流京都市研究集会が2月24日、京都市南区の京都テルサで開催され、400人が参加しました。

午前の全体会では実行委員長(京都市小学校同和教育研究会)が「人間を〈尊敬〉する社会をめざし、集会を通して成長を」と呼びかけました。来賓として解放同盟京都府連の平井斉己書記長、京都府の益田結花文化生活部長、京都市の山本ひとみ文化市民局長が祝辞をのべました。

 集会の基調提案を運動部分について大津淳さん(解放同盟京都市協)、教育の分野に関しては佐藤高文さん(京都市立中学校教育研究会人権教育部会)がおこないました。大津さんは、差別禁止法の早期制定が求められる一方、時間をかけて解決すべき問題もあり、一人ひとりの〈差別しない力〉の重要性を訴え、佐藤さんは、子どもたちの「正しいことを見抜く力」を育むことが、人権問題を解決に導く力を育むことにもつながると強調しました。参加者全員の拍手をもって、基調提案は承認され、続いて、部落解放同盟京都市協議会女性部より、松本紀久子さんが集会宣言を朗読し、これも参加者一同の拍手によって承認されました。

 続いてさん(京都・東九条CANフォーラム代表/東九条マダン元実行委員長)が「共に生きる社会を求めて」とのタイトルで記念講演をおこないました。

 在日朝鮮人2世の朴さんは東九条で生まれ、若いころは朝鮮人であることが嫌だったといいます。日本人になりたくて通名〈新井〉を貫きますが、高校では国籍を理由に奨学金を得られずに定時制に通い、市立芸大卒業後も、音楽講師の仕事が朝鮮人であることを理由に駄目になりました。

 交際相手の日本人女性は、朴さんが朝鮮人であることを受け止めてくれましたが、女性の両親は結婚を認めず、条件として帰化を求められました。日本的氏名への変更を強いられ、10本の指紋と掌紋まで採られるなど、帰化手続きは屈辱的でした。

 結婚後、朝鮮人の苦難の歴史を学び、新井ではなく朴で生きることを決意しました。1987年に日本国籍者として民族名の朴を取り戻します。また民衆文化団体「ハンマダン」結成に関与。これはやがて「東九条マダン」の実現へとつながります。

 苦闘の半生があったからこそ、分断や敵対ではなく〈共に〉を求める朴さん。その実現の場が、さまざまな人びとが共に創る「東九条マダン」です。このまつりの演目の一つが、朝鮮打楽器のサムルノリと和太鼓のセッション、通称〈ワダサム〉。基本リズムを異にする打楽器が共鳴する演奏は、まさに〈共に〉を具現化なのです。

 講演後、ハンマダンのメンバーが歌を披露。そして〈ワダサム〉の演奏。躍動する音が会場を揺るがしました。

 午後は分科会。「部落と人権」「部落の歴史」「多文化共生・フィールドワーク」の3つが実施されました。